●嵯峨野逍遥記 5
一昨昨日(11/25)の地元散策記、【野は 嵯峨野さらなり】編です。
紅葉所処を遍く巡礼、目が「赤々」としてきたので「朽枯」な風趣を翫味する事に。
↑野焼きの煙棚引く長閑な北嵯峨農村部を散策。
王朝以来、遊猟や観月など遊山の地として大宮人に愛され、亦隠遁者や風流人が庵を結んだ嵯峨野。
奥嵯峨山裾にはそんな「鄙風流」の面影が辛うじて留めてられています。
↑百米計り山登りし、嵯峨天皇山陵の中腹より嵯峨野を俯瞰。
此処近年で、更に「狭く」なった様な気がします…。
古来「嵯峨野」の定義は大覚寺.化野から東は双ヶ岡、南は梅津辺りの総称にて、これら一帯全てが田園.野原.竹林でありました。
つまり現在云われている「嵯峨野」とは、往時の「奥嵯峨」と「北嵯峨の一部」に過ぎないのです。
然し都市開発によりその原風景は削り取られ宅地化、谷崎の言葉を借りるならば嵯峨野は「年々奥に追い詰められている」のです。
しかも此処十数年、宅地建設は止まる事無く増加し続けています。
古より対比し語られる事が多かった「嵯峨野の竹林」と「武蔵野の雑木林」。
今や「武蔵野」は死んでしまいましたが、「嵯峨野」の今後は如何哉…。
以上にて11/25の地元散策記は終了。
それにしても大分歩いたものです。