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2011.08.31

●衣装合わせ「祇園東」

扨、早いもので葉月も晦、あと数時間で「秋」を迎えようとしております。
尤も
「台風12号」に「政局」に、巷では一足早めの「野分」が吹降ってをりますが。

そんな荒れ模様の「八月つごもり」に、ミヤコからは早や「晩秋」の便り。
今秋「祇園をどり」衣装合わせの知らせで御座います。
三ヶ月先の話とは云え、気付けば霜月も直ぐにやってくるものでしょう。

所処で「をどり」の開催中、祇園花月は如何するんでしょうかね。

20110831115808ip110831_s秋の舞踊 華やかに 
「祇園をどり」衣装合わせ
京の花街の秋を彩る祇園東の舞踊公演「祇園をどり」(11月1日開幕)の衣装合わせが31日、京都市東山区の祇園会館であり、色鮮やかな衣装の芸舞妓が舞台上で写真撮影に臨んだ。
54回目を迎える祇園をどりの演目は、魂が入ったさまざまな人形が置屋で騒動を起こす「玩草品様々(もてあそびぐさしなのさまざま)」(全7景)。置屋の台所や屋根の上などで繰り広げる舞踊が見どころで、フィナーレの「祇園東小唄」では芸妓8人と舞妓6人が総踊りであでやかに締めくくる。
この日のプログラム用の撮影では、舞台衣装に袖を通した芸舞妓が、師匠から指導を受けながら美しいポーズを決めた。
今年は新たに舞妓となる2人が初舞台を踏み、9月に店出し(デビュー)予定の叶笑(かのえみ)さん(15)は「ねえさんたちの迷惑にならないように踊らせてもらいたい」と話していた。
11月1~10日の午後1時半と同4時開演。3500円(茶券付き4千円)。祇園東歌舞会TEL075(561)0224。
(文.写真共 京都新聞8/31より)

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2011.08.29

●2011「NEW GEAR」

一昨日土曜日は昼過ぎより神保町へ。
愛用のマラソンシューズの走行距離が330㎞を越え、カナリ草臥れてきましたので「NEW GEAR」を購入して参りました。

然乍ら今回の「フットギア」選びは少し計り難儀な事に。
今迄使用していたシューズの後継機種が大幅なテクノロジーチェンジ、その履き心地がイマイチしっくり来ないのです。
そんな訳で約二時間、散々フィッティングを重ねて購入したのがコチラになりました。

Tjr2482_2・アシックスTJR248 TARTHERGALE 2
所謂「虎走」モデル。
固定ファンも多い一足で、まぁ安パイですね。
軽さやフィット感は申し分無し、足幅もさほど広くないのも好みです。
ミズノの「WAVE SPACER AR2」と迷ったのですが、こっちにしました。

で、早速日曜日に「靴馴らし」を兼ねた初試走。
軽く6㎞程走ってみましたが、優しく包み込む様なホールド感は良い感じ。
これ迄履いていたモノがフライワイヤー使用の為、足甲中部の捕掴感が柔らかく感じるのですが、ルーズと云う訳でも無し。
寧ろ踵部のクッションが思っていた以上に柔らかく、今迄のシューズとのギャップに慣れるのに時間が掛かりそうです。
(因みにこれ迄愛用していたのは「ナイキ エアズーム スピードレーサー2」。↓)
http://bamboo-bar.air-nifty.com/blog/2009/12/new-gear-ca5b.html

と云う訳の「NEW GEAR」、レースデビューは来月末「越後湯沢秋桜ハーフ」にて。

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2011.08.28

●週末「山へ海へ」

昨日は昼過ぎより神保町へ。

「未だ八月と云うのに、もうスキーギア物色か」と思われるでしょうが、然に非ず。
レース用のマラソンシューズがそろそろ草臥れて参りましたので、「おNew」を入手し行ったのでした。

しかしまあ、ショップのランニングコーナーの混んでる事混んでる事。
加えて数年前の倍位はありましょうか、シューズの品数も格段に増えておりまする。

そんな中シューズを手に入れた後は、これまた「予定通り」の古書店行脚。
源喜堂で掘り出し物を一冊、他数冊の書籍を購入。
計四時間の「神保町徘徊」、良い買い物をしたと御満悦にて帰途に着きました。

と云う訳で「靴の山」「書架の海」を彷っていた、土曜日の午後でありました。
とさ。

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2011.08.27

●甲州路巡礼「雲峰寺」

えー、先日の後日談。
先週木曜日は甲州路にて「古建築巡り」。
向嶽寺.恵林寺を廻った後は10㎞先の大菩薩峠入山口へ東進、山麓の修験道場に足を運びました。
そんな訳での五寺巡礼その五「雲峰寺」篇になります。

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【写真左】寺域入山口の石碑。
禅刹に掲げられる「不許葷酒要入山門」の戒壇石。
雲峰寺は元来天台寺院でしたが、中世に改宗し現在は臨済宗妙心寺派。
まぁ何にせよ、昼餉にて「麦酒」「獣肉(馬刺)」「薬味(大蒜.葱.生姜)」を飲食してきており、手遅れですが…。
【写真右】山門へ続く石段組。
禅刹とは云え、今でも密教修練道場の雰囲気が漂っています。

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【写真上】仁王門。(重文)
室町後期建立、三間一戸.八脚門、入母屋造、銅板葺。
天正年間(1532~1554年間)の火災で伽藍を焼失した後、武田信虎の中興により本堂と同時期に再建されたもの。
永禄元年(1558)には武田晴信が祈願書を納めているので、詳細な建立時期はその間と推察される。
亦、近隣の神部神社.随身門(旧仁王門)が類似した構造をしており、その造営時期(元亀2年(1571))に近いものとも裏付け出来る。

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【写真上】同.側面より。
組物に略化禅宗様の影響が見られるが、総じて和様の三間一戸門。
蟇股や木鼻の意匠に室町末期の形式を見付けられる。
但し妻飾の装飾は時代が上るので、嘗て木材葺であった際の屋根葺き替え時に手が加えられたものと思われる。

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【写真上】本堂。(重文)
室町後期建立、桁行五間.梁間五間、一重.入母屋造.向拝一間唐破風造、檜皮葺。
和様で小規模な方五間本堂、中世密教本堂の典型であるが、前述した様に再建時期は16世紀中頃。
後年堂内が密教本堂から禅宗仏殿の平面様式に改築されているので、同寺が天台宗から禅宗に改宗した時期は伽藍再興以後の事と推察される。

因みに左側の薬医門は中門。(市指定)
江戸中期建立、一間一戸.薬医門.切妻造、檜皮葺。

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【写真上】同.正面と側面より向拝。
軒唐破風は明らかに様式が異なっており、近世になって補設されたもの。
木鼻や虹梁の装飾からは江戸前期の特色が垣間見える。

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【写真上】庫裏。(重文)
江戸前期建立、桁行10間.梁間5間、東側面庇付.一重.切妻造.妻入、茅葺
妻側を正面とした禅刹庫裏の典型的意匠、妻飾は蟇股に武田菱を配した三重虹梁。
屋根は地方庫裏建築特有の茅葺。
山内唯一の純禅建造物で、仁王門.本堂と同時期に再建された庫裏を近世に入って新造に近い形で再築したものであろう。
規模や様式は清白寺のものとほぼ同様、造営時期も近いと思われる。

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【写真上】本殿と庫裏。
入母屋桧皮葺と切妻茅葺、木造竪板と白土壁のコントラストが美しい。

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【写真上】書院。(重文)
正徳6年(1716】建立、桁行八間.梁間五間、一重寄棟造、茅葺。
前後三室、後列四室の七室構成、禅宗方丈式の書院。
周囲には濡縁を廻らし中庭に南面しているが、板塀越しの為に詳細は不明。
庫裏と同様、茅葺の素朴な佇まいは寺社堂宇と云うより豪農民家を彷彿とさせる。

以上、こんな所処にて。
これにて「甲州路」古寺巡礼シリーズ四部作も漸く最後と成増。
おしまい。

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2011.08.26

●マジック⑭

えー、今日は(も?)殆どの人々にとって無関心な事柄だと思われますので、興味の無い方はスルーして下さい。

 

愈々「世界第三の規模」を誇るスポーツイベントの開幕迄、あと二週間。
一応念の為に云っときますけど「UEFAチャンピオンズリーグ」でも「世界陸上」でも「バレーボール.ワールドグランプリ」でもありません。
「ラグビー.ワールドカップ2011」ニュージーランド大会の事で御座います。

 

しかし其処はマイナースポーツの悲しさ、毎度の事とは云えメディア.一般通じて「認知度」「盛り上がり」の無さは予想通りです。
尤も今大会は日テレさんが英断、深夜枠とは云え日本戦4試合含めて計10戦を地上波中継やってくれるので少しは露出も増えそうですが…。

と思っていたら「男子サッカーWC.アジア予選」「女子サッカーオリンピック.アジア予選」とスケジュールが重複、世間の注目は皆そっち側にもっていかれそうです。

 

Rwc20112ndcollogo_5850_3まぁそんな事は扨置。
と云う訳で、私めにとりましては一ヶ月遅れの「熱い夏」がやって来るのです。
「興奮の」そして「寝不足の」九月になる事は間違い無し。
ワクワク.ドキドキ

 

 

 

 

 

 

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2011.08.25

●甲州路巡礼「向嶽寺.恵林寺」

えー、先日の後日談。
先週木曜日は甲州路にて「古建築巡り」。
「清白寺」「大善寺」を廻った後は塩山駅を経由して北進、「塩ノ山」山麓の臨済禅刹へ向かいました。

そんな訳での五寺巡礼その三.四「向嶽寺.恵林寺」篇。
先ずは塩ノ山の麓、向嶽寺で御座います。

02【写真左】中門。(重文)
室町中期建立、四脚門.切妻造、檜皮葺。
山内に残る唯一の中世建造物。
上棟迄伸びた親柱、柱結に海老虹梁を用いる等、典型的な禅宗様式の四脚門。
四脚門としては大規模の部類、亦総門形式のものとしては珍しく石積壇上に立つ。
左右に伸びる築地塀は県指定。

 

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【写真上】仏殿兼開山堂。(市指定)
仏殿/天明7年(1787)建立、桁行3間.梁間3間、一重裳階付.入母屋造、銅板葺。 
正面から見ると一般的な方三間仏殿だが、仏殿と開山堂を合棟し一体化させた特殊な構造、合称して祥雲閣と号する。
様式は大幅な略化.変形を伴った禅宗様。
柱間には桟唐戸と花頭窓を配すも壁面は土壁、軒廻りは簡易な出組詰物と二軒垂木とし装飾的趣向は見られない。
尚、平成22年10月に修復工事が終了した計りである。

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【写真上】同.側面より。
開山堂(後部)/同年建立、桁行4間.梁間正面3間.背面6間、一重.寄棟造、銅板葺。
寄棟造の妻前面に楼閣が建った様な構造、規模や用途は異なるが撞木造的な要素も想起させる。
内部は間仕切りや陣割の無い平面構成、裳階の後方桁4間部が開山堂となる。

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【写真上】中門と仏殿の中間、三門礎石跡。
三間一戸の八脚門、二重門か楼門形式であったと思われる。

因みに伽藍群は東を正面とし「中門‐仏殿‐方丈.書院」が一直線に配置される禅宗様式、その南側には.鐘楼.庫裏等が並ぶ。
しかし近世以降、天明6年と大正15年の火災により主要堂宇は尽く焼失、中門と仏殿以外はその殆どが昭和期の再建に由るものである。

この後は「信玄のみち」を北上、恵林寺へと向かいました。

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【写真上】中門。(重文)
慶長11年(1606)建立、四脚門.切妻造、檜皮葺。
「黒門」に比対して、その漆色彩から「赤門」と称される。
親柱.控柱の構造、柱下の礎盤、海老虹梁による結柱等、典型的な禅宗様四脚門。
桃山期の建造であるが、様式的には室町建築の延長に止まる。

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【写真上】三門。(県指定)
江戸初期建立、一門一戸.四脚楼門.入母屋造、柿葺。
四脚楼門形式の三門、小規模禅刹では類例が散見する。
但し準十刹寺格の三門としては余りに粗略で、恐らく旧三門焼失後に鐘楼門として用いられていたものを移築.転用したと思われる。
その所為もあり、上層下層の柱高比や屋根軒出と主屋の均衡が悪く、安定感にも欠ける。
因みに同地域では笛吹.慈眼寺が恵林寺と同様、鐘楼門を三門として用いている。

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【写真上】本坊方丈庭園.中央より西側を望む。(国指定名勝)
方丈の北面に展開、池泉回遊式庭園の形をとっているが鑑賞本位である。

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【写真上】同.中央より東側を望む。

この恵林寺庭園、由緒は開山「夢窓国師」作の築山泉庭。
但し現在の庭観からは、浄土思想や禅修業の厳格さを具現化した国師独特の作庭意匠は見られず、柳沢吉保によって江戸中期に整えられたものが原型となっている。
具体的には「中島」「雌瀑布滝口」の石組や「「飛石」反石橋」の意匠等は武家色の強い江戸期の作庭技法。
庭全体の構成も表層的な見栄えを重視した築庭に止まり、精神性豊かな内的作意は全く感じられない。

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【写真上】同.庭園西側の滝口周辺と築山。
若しも国師作庭の名残があるとすれぱこの辺り、「雄瀑布滝口」と上部「築山の普陀落山」位であろうか。
上段を枯山水、下段は池泉形式とした庭園二段構成は国師の好んだものであるし、石組は室町期の手法と見れなくも無い。
但し瀑布周辺に乱立する石立に加え、築山にも小煩い石組が多く、後世に大きく手が加えられているものと考えられる。

と、こんな所処にて。
この後は遥か大菩薩峠の山麓、雲峰寺へと向かいました。
続く。

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2011.08.24

●あだしの「賽の河原」

奥嵯峨.化野念仏寺では昨日と今日、「千灯供養」が営まれております。
此処「あだしの」は平安以来の葬送地にて、千二百年来の無縁仏も数知れず眠っている事でしょう。

昨年久し振りに足を運びましたが、その寂寥とした雰囲気は華やかな催しの多い「ミヤコの祭催事」の中でも異色なもの。
私め「水子」に心当たりは御座いませんが、それでも蕭々と手を合わせて参りました。

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この「晩夏」歳時記を終えると、嵯峨野には…。
例えば野には「薄穂」、空には「秋茜」、音には「轡虫」「蟋蟀」。
洛中に較べ、一足早い初秋気配が訪れて参ります。

20110823212503ip110823tan000157000_去りゆく夏 石仏に祈り 
化野念仏寺 「千灯供養」
京都市右京区嵯峨鳥居本の化野(あだしの)念仏寺で23日夜、無縁仏にろうそくを供える「千灯供養」が始まった。数千の石仏や石塔が並ぶ境内で、柔らかな夜風に炎が揺らめいた。
化野は古くから葬送の地で、供養のために石仏がまつられてきた。長い歴史の中で無縁となり散在していたが、明治時代に地元住民らが集めて供養したのが千灯供養の始まりとされる。
午後6時から参拝が始まった。読経が響く中、参拝者は先祖の名を書いた経木(きょうぼく)を納めた後、石仏や石塔が並ぶ「西院(さい)の河原」でろうそくをそっと供え、手を合わせていた。
夫を亡くしてから同寺近くに住み、毎年孫と訪れている中村照子さん(77)は「ただ無心で手を合わせました」と穏やかに話していた。24日夜も営まれる。中学生以上千円。
(文.写真共 京都新聞8/23より)

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2011.08.23

●甲州路巡礼「大善寺」

えー、先日の後日談。
木曜日は甲州路にて「古建築巡り」。
塩山駅からチャリンコを漕ぎ出でて、最初に訪れた先は「清白寺」。
その後は勝沼の東密寺院へと向かいました。

そんな訳での五寺巡礼その二、「大善寺」篇になります。

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【写真上】山門。(県指定)
寛政10年(1798)建立、三間一戸.二重門、入母屋造、銅板瓦葺。
組物は一.二階共三手先、軒廻り垂木は一層は平行垂木、二層は扇垂木。
江戸期に良く見られる復古的和様建築だが、時代特徴として禅宗様との折衷様式(特に上層)が取り入れられている。
これは中世以降、甲州周辺で臨済寺院が増加した事の影響もあると考えられる。
再建の後は改変も少ないと思われ、状態は良好。

2_2【写真左】同.後方より。
後面の両端各一間のみを吹き放ちとしているのが特徴。
こうして見ると、主屋に対して屋根の軒出が大きいのも良く解る。

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【写真上】参道石段より本堂を望む。
石段にに対して跨立して建てられているのは楽屋堂。
構造は簡易な縣造であるが、神社の割拝殿的要素も感じさせる。
建立年代等は不明も、石段組からして嘗てより門形式の建造物自体は存在したものと考えられる。

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【写真上】本堂(薬師堂)。(国宝)
弘安9年(1286年)建立、桁行五間.梁間五間、一重.寄棟造、檜皮葺。
鎌倉後期を代表する中世密教五間堂として、且つ東日本で唯一大仏様の手法が確認出来る建造物として貴重な遺構。
「太長の柱に実肘木付二手先で簡略化された組物」「頭貫木鼻の繰形」「木割の大きい中央三間桟唐戸と横板張」等々、和様を機軸としつつも部分的に大仏様が取り入れられた、所謂「新和様」建築の代表的遺例である。

内部の拝観も可能で、中央列柱により内陣外陣を分ける平面形式が良く解る。
前方二間通りを外陣(五間二間)、その奥二間通り中央三間を内陣とし、外陣の礼拝空間を広くとる為に平柱を省略する構成は中世密教本堂で流行した典型。
その代わりに虹梁で受ける手法は大仏様独特のものである。

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【写真上】同.近景。
特に軒下部に於いてそ大仏様の手法が顕著で、堂宇全体からは繊細と云うよりは大らかな造りの印象を受ける。
尚、屋根は寄棟造であるが上棟が極端に短く、一見宝形と見間違う程である。

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【写真上】同.背面上部より。
屋根軒反りの緩やかさが良く解る。
幅広にとり勾欄を設けない縁も、同時代本堂の規範的な手法。
尚、縁板は大仏様の榑縁では無く、和様の切目縁である。

045【写真左】
客殿庭園。(県指定名勝)
江戸寛政期に築庭されたと見られる池泉観賞式庭園。

客殿を造営した際に湖岸が可也手前側に縮小されたと見られ、汀線が歪少された感がある。
その為庭園全体の構成は損なわれているが、築山東側の鶴石組と三尊石組は往時に近いものと思われる。
亦、西側山畔には斜面を利した滝口があるが、滝石組そのものは多分に手が加えられている。

全体的に江戸期に良く見られる本坊に付する小型の池泉庭園。
池泉を南西側に拡張し、中心視点を少し西奥に移動させれぱ美観はより整うと考えられる。

と、以上こんな所処にて。
この後は「向嶽寺」へと向かいました。
続く。

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2011.08.22

●「ジャパン」スコッド発表

ワールドカップを⑱日後に控えた本日夕刻。
ニュージーランド行きの「ブレイヴ.ブロッサムズ」スコッド30名が発表されました。

メンバーは概ね予想通り。
今迄此処積み上げてきた人選に加え、今年に入ってチョイスされた「アイブス」「宇薄」「上田」「ウィリアムス」が加わった構成。
結局SOのバックアップに目途が立たず(若しくは山中の件)、更にプライスロビンスが間に合わなかった事が頭痛の種。
間に合わせの感もある「後者二名」の選考に繋がったものでしょう。

まぁ「メンバー選考」に加え、「ジャパンらしい戦い方」「ガイジン比率」…。
ファンの視点からすれば文句や注文は色々出てきますが「本番は目の前」。
もうそんな事を云っている時期でも御座いません。

望むべくは「JKジャパン」5年間の集大成として最低ノルマ(=2勝)の公約達成。
そして更に一つ付け加えるならば…。
「誇りの持てる」ユニオン.ラグビーを見せて欲しいものです。

Fowards
平島久照 / 川俣直樹 / 青木佑輔 / 堀江翔太 / 湯原祐希 / 畠山健介 / 藤田望 / 大野均 / 北川俊澄 / トンプソン ルーク / ジャスティン・アイブス / 菊谷崇 / マイケル・リーチ / バツベイ シオネ / ホラニ龍コリニアシ / 谷口到
Backs
田中史朗 / 吉田朋生 / 日和佐篤 / ジェームス・アレジ / ウェブ 将武 / マリー・ウィリアムス / 今村雄太 / ニコラス ライアン / 平浩二 / アリシ・トゥプアイレイ / 小野澤宏時 / 遠藤幸佑 / 宇薄岳央 / 上田泰平 

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●果たして「カイゼン」はされたか

「ふぁいとー、いっぱぁーつ!!」

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と云う訳で、昨日は夕刻より秩父宮詣。
WC前最後のテストマッチ、「ジャパン-アメリカ」戦を観戦して参りました。

然乍ら、昨晩の天気は生憎の雨模様。
試合直前には降足も強くなり、お陰で「濡鼠」でのラグビー観戦となりました。
まぁ選手からしてみれば「熱帯夜」よりはマシなコンディションだったと思いますが、何れにしても悪天候の中での試合で御座いまして。
以下、簡単な観戦記に成増。

ジャパン(3T1G1PG)20 - 14(2T2G)アメリカ

収穫としは「取敢えず」勝った事。
流石に本番直前の、加えてホームでの壮行試合で負ける訳にはいきません。
但し「すっきり」勝利と云うには程遠い、お天気同様の内容となってしまいました。

まず此処数試合(若しくは慢性的に)挙げられている課題は改善されたかと云うと…。
 ①試合の入り→マシになった。
 ②ラインアウト→相変わらず。
 ③タックル→このレベルには通用する。
 ④スクラム→このレベルでは組み勝てる。

その他散見、気になった所処。
 ・得意のモールは押せず終い。→
  セカンドチョイス中心のFW面子と云っても、格下相手に押せないのは…。
 ・ハンドリングエラー。→
  今日のコンディションを差し引いても、矢張り多い。
  判断ミス(パスorラン)に誘発されてのノッコンも問題。
 ・ディフェンス一般。→
  相手が単調な攻撃に終始してくれたので、崩されての被トライは無し。
  しかし背後の空きスペースを突かれる危険な場面は多発。
 ・ラスト20分の消耗度。→
  スコアに結びつかない攻め疲れからか、65分過ぎからは足が止まる。
  尤も相手も同様にて大事には至らず。
 ・⑩⑫⑮のバックアップ。→
  居ない。結局アレジ.ニコラス.ウェブでやり繰りせねば。

因みに目に付いたプレーヤーは6.11.12.20.22。
MOMは攻守の要ニコラスライアン、次点で攻撃のテンポアップに寄与した日和佐。

と、こんな感じにて。
取敢えず今からもう一度録画を見てみる事と致します。

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2011.08.21

●ウチは「鹿王町」

ミヤコでは昨日より「地蔵盆」が始まっております。

勿論、私めにとりましても幼少時「夏の一大イベント」。
「おやつ配り」「風船釣り」「福引」その他色々な催し…。
僅か二日間の催事ではありましたが、そりゃ楽しいもので御座いました。

所処でこの「地蔵盆」、てっきり全国何処でも行われている催事だと思っておりましたら…、違うんですね。
「ミヤコ」を中心とした京都文化圏.関西の一部にしか無い風習であるの知ったのは二十代も半ば、地元を離れてからの事。
まぁ件不存知の方は「ウィキ様」にでも仔細を聞いて頂くとして、今振り返ってみれば地蔵盆をがあっただけでも「ミヤコに生まれてヨカッタ」と思えるのです。

尤もこの地蔵盆、「悲しい風物詩」としての一面も御座いまして。
そう、催事を終わるとあれ程長かった「夏休み」も残す所処一週間。
一抹の淋しさを覚える「晩夏の風物」でもあったのです。

何にせよミヤコの子供達にとって、天幕と提灯を立てた地蔵祠は「夏の原風景」。
こうやって「季節の変わり目」と「歳時記」を学んでいくのでもありました。

212147l71idn7f5r_l子どもの健やかな成長願う 
京都市内で地蔵盆
子どもたちの健やかな成長を願う「地蔵盆」が20日、京都市内各地で始まった。時折雨が落ちるあいにくの天気の中、子どもたちはお地蔵さんを前におやつやゲームで楽しい時間を過ごした。
京都市上京区の新和町自治会では公園に張ったテントで地蔵盆を営んだ。参加した約10人の子どもらは輪になって大きな数珠を次々と送る「数珠回し」で無病息災を祈った後、福引などに歓声を上げた。
自治会長の櫻井茂明さん(57)は「町内は一時子どもがいなくなったが、若い世代が子連れで帰省してくれるようになった。しばらく地蔵盆ができそうで頼もしい」と話していた。
(文.写真共 京都新聞8/21より)

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●街は初秋気配

お盆明けを境に、列島遍く流れ込んだ熱帯低気圧。
大雨の峠は過ぎたものの、もう暫くの間はすっきりしない空模様が続きそうです。

まぁそのお陰と云っては何ですが、此処帝都でも先週迄の酷暑が嘘の様な過ごし易さ。
昨日今日なぞは「涼しさ」を通り越して、「肌寒さ」すら感じられます。
「初秋気配」と云うには未だ早々かも知れませんが、晩夏の趣は日毎色濃くなって参りました。

そんな季節の変わり目が感じられる砌で御座いますが、皆様に於かれましては要らぬ「夏の置き土産」なぞには充分に御注意を。
「休み明けの気の緩み」に加えこの寒暖差、拗らせ易い時期ですからね。

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2011.08.20

●甲州路巡礼「清白寺」

えー、先日の後日談。
木曜日は甲州路にて「古建築巡り」。
塩山駅からチャリンコを漕ぎ出でて、最初に向かった先は三ヶ所の臨済禅刹。

そんな訳での五寺巡礼その一、「清白寺」篇になります。

A_2
【写真上】総門。
享保16年(1731年)建立、四脚門.切妻造、桟瓦葺。
親柱が棟木迄伸び、控柱は円柱形と云った一般的な禅宗様の四脚門。
構造は可也簡略化されている。

B_3
【写真上】仏殿。(国宝)
応永22年(1415)建立、桁行三間.梁間三間、一重裳階付.入母屋造、檜皮葺。
総門から鐘楼門(兼三門)を経た延長線上に建在。
小型禅宗仏殿建築の代表的遺構、その規模は「万福寺.地蔵堂」に近似するが、より一回り小振りである。
他、純禅様の代表的な方三間仏殿には「円覚寺」「万福寺」「功山寺」、基本形の構造略化したものとして「永保寺.観音堂」「洞春寺.観音堂」等があるが、中世の遺例は十指に足らぬ貴重なものである。

C2
【写真上】同.近景。
竪板張りで花頭窓を施した柱間、正面中央の桟唐戸には菱格子花狭間、頭貫と内法貫間には弓連子欄間の意匠。
一見しただけで禅宗様特有の装飾が見られる。
屋根部輪廓も禅刹仏殿独特のそれであるが、上層の軒反りは比較的控え目。

D1
【写真上】同.側面より。
組物手法も禅宗様であるが主屋組物は出組詰組(裳階は出三斗)とし、可也の簡略化が見られる。
垂木は裳階部に平行垂木.上屋は扇垂木を、何れも疎垂木を配す。
従い禅宗建造物特有の幾何学的とも云える、繁垂木.組物群軒廻りは見られない。

尚、同時代(室町期)の地方禅寺建造物遺構は、前述した「永保寺」「洞春寺」の他にも組物の略化したものが多く見られ、禅宗建築が国内全般にで馴染んできた事を示すものであろう。

E2【写真上】庫裏。(重文)
元禄2~6年(1689~1693)建立、桁行9間半.梁間6間半、一重.切妻造.妻入、茅葺、(北面庇付.鉄板葺)。

堂宇中心線上の東側に逸れて建つ。
南側正面を見せる切妻は禅刹庫裏の典型的意匠。 
妻飾は蟇股三重虹梁を大瓶束が支える。

E
【写真上】同.側面より。
堂宇上の役割にも因由するが、禅刹伽藍と云うより農村地主旧家の佇まい。
茅葺屋根も葺材入手の容易さから必然なのであろうが、矢張り地方に於ける禅刹庫裏ならではの特色、出来れば内部公開を求めたい所処である。

尚、禅宗寺院の庫裏は遺例が少ない上に最古のものでも瑞厳寺.妙心寺からとなり近世以降に属する。
加えて地方的特色が顕著な点に於いても貴重な遺構である。

F
【写真上】本堂。(市指定)
元禄6年~正徳3年(1693~1713)建立、
桁行10間.梁間6間半、入母屋造.軒唐破風付、桟瓦葺。

前後各3室.6室構成の一般的な方丈型本堂、嘗ては法堂的役割をしていたと思われるが、現在は書院的要素が強い。
軒唐破風は中門に属し、江戸期元禄様式の彫刻を施している。
庫裏同様、本来茅葺であったが近年桟瓦に葺き替えられた。

G
【写真上】帰路の折、最後に「見返り仏殿」一写。

この後は「大善寺」へと向かいました。
続く。

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2011.08.19

●「なまよみの」道中記

昨日は日帰り小旅行、甲斐国は塩山迄足を運んで参りました。

まぁ目的は何時も如くの古建築巡り、今回の主題建造物は「中世仏殿」。
例に由って詳細は後日廻しと致しまして、先に「テケトー」スナップ集をアップする事に致しまする。

尚表題は「甲斐」に掛かる枕詞にて。

0
【写真上】。旧高野家住宅(甘草屋敷)。
江戸後期建造の木造民家、主屋を始め計6棟が重文指定されています。
塩山駅北口より徒歩1分にてレンタルサイクル貸し出し所も兼ねていますので、取敢えずは此処でチャリンコを借りる事に。
因みに料金は無料、しかも「ハイテク」電動アシスト付きで御座います。

1
【写真上】塩ノ山。
歌枕の一。
甲府盆地の北東端平地部に離立している標高552.8m.周径約4㎞の丘陵。
「塩山」地名の由来ともなっています。
まぁ細かい事はグーグル様にでも聞いて下さい。

2 
【写真上】ブドォウー ━━((゜Д゜Uu))━━!!!!!!。

3
【写真上】モモォー ━━((゜Д゜Uu))━━!!!!!!。

流石は甲州、駅周辺を離れると見渡す限りの「果物畑」。
因みにこの日の最高気温は36.7℃。
「灼熱の炎天地獄」に加え「盆地特有の蒸し暑さ」が、身体中の水分を容赦無く奪っていきます。
そんな訳で道中、路端の果樹園販売所で桃を幾つか購入。
水密を貪りながらペダルを漕いでいたのでした。

C【写真左】
セミィィー ━━((゜Д゜Uu))━━!!!!!!。
矢張り蝉でも暑いものは暑いんでしょう。
屋根の軒影で「ジージー」鳴いておりました。

A

B
【写真上.下】臨禅と東密寺院。
一応、真面目な写真も二枚計り。

Ccf20110819_00000
【写真上】当日の行程図。
件の灼熱地獄の中、全てチャリンコ強行軍。
特に最後の場所(右上)なんぞ、フツーは行こうと考えないでしょうが。
実際鬼の様な登り坂で、幾ら電動自転車と云えどもモーターが役に立ちません。
結局片道9㎞中、三度程「桃休憩」を入れての到着でした。

そんな訳で今度は「輪行でやって来よう」と固く心に誓うのでありました。

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2011.08.18

●「なまよみの」

えー、只今午前9時を回った所処。
本日私め小旅行にて、甲州は「塩山」の地を訪れております。
この残暑厳しい折、何故故「更に暑苦しい」盆地に来ているのかと申しますと。

①「勝沼ワイン」を飲みにやって来た。
②「石和温泉」へ湯治にやって来た。
③「ヴァンホーレ甲府」の応援にやって来た。
④「禅刹巡り」にやって来た。
⑤「自分探しの旅」にやって来た。

うーん、バレバレですね。
そんな訳で旅行記は亦後日にでも。

尚表題は「甲斐」に掛かる枕詞にて。

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2011.08.16

●ミヤコの夏.終演

今宵のミヤコは「五山の送り火」。
尤も私めの地元、嵯峨的に云うなれば「鳥居の送り火」と「広沢池.灯籠流し」の日で御座いますが…。

然乍ら私め、今年のお盆は「帝都在住」。
「高層ビル」と「箱根の嶮」と「逢坂の関」に遮られ、五山に揺らめく焔を拝む事は叶いません。
まぁ何処かのニュースで目にする事は出来るでしょうから、今晩はテレビを点けっ放しにしておく事に致します。

送り火が終われば、目白押しだった「ミヤコ.夏祭事」も一段落。
あとは地蔵盆が過ぎると、京も初秋を迎える事と成増。
但しミヤコの残暑は厳しいもの、「茹だる暑さ」はもう暫く続くでしょう。

20110816230533daimonnji2_2鎮魂の炎、被災地に祈り 
点火前に黙とう、五山送り火

お盆に迎えた先祖の精霊を送る京都の伝統行事「五山送り火」が16日夜、京都市内で行われた。今年は東日本大震災を受け、五つの山の関係者が午後8時に一斉に黙とうしてから点火した。市街地では大勢の市民や観光客が燃える炎を静かに見つめ、震災で犠牲となった人達の鎮魂を祈り、亡き家族や知人への思いをはせた。
今年の送り火では、大津波で倒された岩手県陸前高田市のマツを「大文字」で燃やす計画が放射性物質への懸念から中止された。京都市は、陸前高田の別のマツを燃やす計画を五山に提案したが、マツから放射性物質が検出され使用を断念。二転三転の対応に全国から苦情や批判が殺到する事態となった。
午後8時、送り火の関係者約1200人が山上で黙とう。如意ケ嶽(左京区)の「大文字」に点火され、1画が約80~約160メートルの「大」の字が浮かび上がった。続いて「妙」「法」、「船形」、「左大文字」、「鳥居形」の順に火がつけられ、夜空を彩った。
今年は、震災の「復興と鎮魂」のため仙台七夕まつりで約2300枚の護摩木を募ったほか、騒動を受けて護摩木と割り木計約千本に京都市民からメッセージを受け付け、五山で燃やされた。
鴨川沿いや嵯峨嵐山などには、昨年より約1万人多い約11万人(京都府警発表)が繰り出した。
(文.写真共 京都新聞8/16より)

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2011.08.15

●「口に苦し」果たして良薬か否か

えー、昨日の事。
眠い目を擦り乍ら早朝27:30より「ジャパン-イタリア」戦を観戦しておりました。
WCを一ヵ月後に控えテストマッチも残す所処二試合、仕上がり具合を確認する上でも大切な一戦です。

で、内容及び結果…、です。

○イタリア(4T4G1PG)31 - 24(3T3G1PG)日本●

過去4戦4敗の格上相手にスコアだけ見れば善戦、なのですが…。
果たして「課題の多い」、と云うよりPNCから持ち越していた課題が未修正の儘「改善されていなかった」と云うべき内容でした。

先ずは最早恒例化しつつある「入りの悪さ」。
「キックオフのキャッチミス」→「スクラムペナルティ」→「ラインアウトミス」→「ノットリリース」で開始早々3分に失トライ。
その後も反則の繰り返しで後手を踏み、10分にもゴールラインを割られます。
最初13分迄のポゼッションは一割位だったでしょうか、殆どラグビーをしていません。
更に後半開始直後の4分にもトライを奪われており、「前後半の入り10分×2」だけで21点を失っています。

ラインアウトも相変わらず不安定な儘。
勝負所処だけでも3、4本は確保出来なかったでしょうか。
並びを早くするなりショートを使うなりの工夫も見られず終いでした。
まぁこれはジャパンの「慢性的病気」なので、HO人選を変えても即効薬になるとも思えませんし。
何とかならんものでしょうかねぇ…。

更に高いタックル。
サモア戦でも気になったのですが「ティア2」の上位国が相手だと、高くタックルに行ってもボールに絡むのは難しく弾き飛ばされてしまうのがオチ。
寧ろ「低く」「早く」「視界の外」からのタックルでノックオンを誘った方がTOの確率は高いと思うのですが。
ホラニ.アイブス.トンプソン.リーチクラスなら未だしも、少なくとも日本人タックラーは低く当たる位の約束事はして欲しいものです。

そんな中で新たにはっきりした課題は「スクラム」。
PNCでも危惧の一端は見られたのですが、此処迄ボコられたのは久し振りでしょう。
ユニオンでもトップクラスのスクラムと組めたのは本番前の収穫(特に対フランス)、何らかの対策を講じてくれる事を信じるしかありません。
しかし嘗ての御家芸「ダイレクトフッキング」は何処へ行ったのでしょう。
もう久し方見ておりません。

収穫としては6Nsの一角である相手に、そこそこアタックが通用した事。
特別なプレイを選択をしなくともフェイズの中で確実にゲインは出来てましたし、そこにトライ迄の意図も見えていました。
無意&危険なキックも無くなり、攻撃面は確実に整備されています。
あと、相手がイタリアと云う事もありますがラインディフェンスも安定、大幅なラインブレイクは一度も許しませんでした。

総括としては、これ程「ラインアウトは取れない」「スクラムは圧倒される」「モールは押されまくり」の中で、BP内の敗戦ですから健闘したとも云えなくともありません。
反面イタリアのメンバー構成が1.5本目、加えて前半は非イタリア的な戦い方を選択してくれていた事も差し引くと、一概にも喜べないものです。

個人的には、ヨーロッパの準強豪相手に「滅多に無い勝てるチャンスの整った試合」を落とした残念感の方が強い一戦でした。

おはり。

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●「黄檗にて」後篇

えー、先日帰京の後日談。
7月19日に訪れた黄檗宗総本山、「萬福寺」後篇で御座います。

046_3_4【写真左】海パン 海版。
一応、御約束迄に。
萬福寺のランドマークみたいなものです。

因みに魚が口から吐き出そうとしているのは「珠」。
決して麩を食べている所処ではありませんので、念の為。

047_
【写真左】隠元豆。
御約束その二、天王殿前にて。
本当に植えられておりました。
宗祖に事由するものですから、当然と云えば当然かと。

因みに4月3日は「インゲン豆」の日です。

Mapimage
【写真上】萬福寺境内図。(現代.赤丸は重文)

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【写真上】萬福寺伽藍古図。(1688~1711年頃)

以下、総括に成増。
萬福寺山内には松隠堂を含め計23棟(附.回廊)の建造物が重要文化財に指定されています。
亦、その伽藍配置や建築様式は、明末清初の仏教建築の影響を受けたもので国内の類例も少なく、近世建築史上に於いて高い価値のあるものです。
しかし同寺の「極めて稀覯」な点は文化財の多少では無く、別の部分にあります。
それは「創建時の姿がほぼそのまま残されている」の一点に尽きるでしょう。

萬福寺の創建は1661年、主要伽藍が整ったのはその約30年後。
当時より消失した主要堂宇は「東司」「双鶴亭」、移築されたものも「旧総門(現松隠堂裏門)」位のもので、江戸期の伽藍古図と較べても殆ど変りがありません。

現存している多くの古寺社は、数次に於ける兵乱や火災等の罹災にりその堂宇を消失、更には後世の改悪等によって殆ど往古原型を留めていません。
その中で幾ら江戸期建立とは云え主要堂宇を喪失する事無く、当初からの寺観を留めている稀少な遺構なのです。

然乍らこの「萬福寺」、京都に数多ある寺社観光地の中では「非主流」な存在。
その原因は「宇治」近辺と云う洛中から離れた立地にも因るのでしょうが、寧ろ中国明風の建築様式が奇に映るからかもしれません。
要するにミヤコ観光の際に、皆様が求めいてる「ミヤビな感じ~」がしないからではないでしょうか。

加えて不幸な点がもう一つ、「京都」は古建築「国宝.重文」だらけでして、これだけの史跡ながらも余り目立ちません。
もしも国指定文化財の少ない他府県に所在していたなら…。
瑞龍寺や崇福寺の例を挙げるまでも無く、「大雄宝殿」「法堂」「総門」辺りは恐らく「国宝」指定され人気の観光地となっていた事でしょう。

と、まぁそんな訳で上述した様に貴重な史跡。
「国宝&世界遺産」の平等院や宇治上下社からも一駅ですので、気が向いた方は一度足を運んでみて下さい。
「黄檗」と「臨済」の違いはあれども五山に比する大禅刹、萬福寺を観る事により、京や鎌倉五山の往時の姿を想起するのに役立つと思いますから。
あと、トテモ良い点は、何時行っても「ウソみたい」に空いています。
因みにこの日、私以外の来訪客は「一組二名で」した。

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2011.08.14

●「黄檗にて」中篇

えー、先日帰京の後日談。
7月19日に訪れた黄檗宗総本山、「萬福寺」中篇で御座います。

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【写真左】諸堂宇を繋ぐ回廊。(8棟.重文)
【写真右】天王殿前面の吹放ち通路。
天王殿より山内堂宇は四半敷の回廊によって結ばれており、各堂宇は正面一間を吹放ちの通路としているのも伽藍群構成上の大きな特徴。
この回廊も諸堂の付属施設として重文とされている。
尚、山内堂宇で樋が設置されているのは後述する松隠堂だけであり、その理由としてこの吹放ち通路と高い基壇の存在が挙げられる。

一見中国情緒溢れる特殊な形式だが、初期禅宗様寺院の伽藍古図を見ると主要建造物は回廊で結ばれている(建長寺指図.浄光明寺敷地絵図.東福寺伽藍図.泉涌寺絵図など)。
明代と宋代の違いはあるが中国様式を色濃く踏襲した寺院は、堂宇を廊で囲っていたものと思われる。
因みに萬福寺と同時期に建立された禅刹、高岡.瑞龍寺が同様の伽藍構成を持っているが、矢張り中国の径山万寿寺を模したものである。

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【写真上】鼓楼。(重文)
【写真下】鐘楼。(重文)
共に寛文8年(1668)建立、桁行一間.梁間一間、一重裳階付.入母屋造、本瓦葺。
同年建立同様式、天王殿の左右に連なり対を成す。
中世以降の鐘楼建築は四脚一重の切妻か入母屋、亦は重層袴越形式が通例であり、近世の鐘楼では黄檗宗寺院にしか見られない。

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【写真左】伽藍堂。(重文)
【写真右】祖師堂。(重文)
共に寛文9年(1669)建立、桁行三間.梁間三間、一重.入母屋造、本瓦葺。
同年建立同様式、鼓楼.鐘楼の後方に連なり対を成す。
典型的な禅宗様の小規模仏堂式建造物で、黄檗特有の様式は見られない。
尤も一般禅刹であれば脇柱間は火灯窓となっている所処であろうが、此処山内に限らず黄檗寺院で火灯窓は用いられない。

この後方には禅堂と斎堂、西方丈と東方丈(共に非公開)が左右対照均等に配列され、伽藍群を形成している。

046_3_2【写真左】斎堂回廊部。(重文)
寛文8年(1668)建立、桁行五間.梁間六間、一重.入母屋造、本瓦葺

此処も庇下の一間は吹放ちの通路になっており、食堂と云う建物用途上から鳴物の法具が設置されている。
青銅製.雲形をしたものが「雲版」、丸太を魚形に彫刻したものが「開板」。

 

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【写真上】松隠堂.開山堂。(重文)
延宝3年(1675)建立、桁行三間.梁間一間、一重裳階付.入母屋造.向唐破風造(背面後室附属)、本瓦葺。

松隠堂は三門北側にある一院で、「通玄門」「開山堂」「舎利殿」が南北一直線上に並び、西側に「客殿」「持真寮」「庫裏」「裏門」、東側に「寿蔵」が建ち並んで一郭をなしている(全て重文)。
本来は宗祖隠元所縁の開山塔院として本寺から独立した塔頭であったが、近年になり合併された。
開山堂はその主要堂宇、大雄宝殿.法堂に較べ小型も同様式。
「卍崩し勾欄」が目を引くが、前述した法堂のものが表象的な意匠に対し、開山堂のものは「卍字そのまま」に組み込まれている。

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【写真上】開山堂より境内を望む。
正面は通玄門。
寛文5年(1665)建立、四脚門.切妻造、本瓦葺。
右は松隠堂客殿。
元禄7(1694)建立、桁行20.m.梁間13m、一重.入母屋造。
南面玄関は南面入母屋造、玄関東面突出部は唐破風造。
北面開山堂間廊下は切妻造.桟瓦葺。

客殿は山内唯一の和様建造物。
杮葺き.唐破風付の入母屋造は中国様式伽藍群の中で異質に映る。
屋根は大正期の補修の際に桟瓦に葺き変えられたが、平成20年からの修復で建立時の姿に戻された。

以上、本日はこんな所処にて。
続きは亦明日にでも。

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2011.08.13

●「黄檗にて」前篇

えー、先日帰京の後日談.7月19日分その壱。

この日は午前中に京博で美術展観覧。
目当ての展示会を観た後は、「おけいはん」で宇治方面へ出掛けて参りました。
目指すは黄檗の禅刹、異国趣味溢れる大伽藍にて。

そんな訳での古寺巡礼、「萬福寺」前篇で御座います。

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【写真上】総門。(重文)
元禄6(1693)建立、桁行三間.梁間二間、一重.切妻造段違.八脚門、本瓦葺。
構造的には八脚門と四脚門の中間に属するもの。
屋根の中央一間を一段高く設けた門姿は中国牌楼に似た形式、長崎.崇福寺ほど極端では無いにせよ、明末清初の仏教建築の影響が強い。
亦、入山門の上棟に魔除けとして摩伽羅を置くのはアジア各国仏寺に見られるが、日本では黄檗宗独特の装飾である。
(摩伽羅とは鯱に似た伝説上の動物で鰐を模したとも云われる)
013_3
【写真上】三門。(重文)
延宝6年(1678)建立、三間三戸二階二重門(両山廊付)、入母屋造.本瓦葺。
(付左右山廊 桁行二間.梁間一間、一重、切妻造、本瓦葺)。
三間三戸と大禅刹の三門形式としては小規模ではあるが、柱間を大きくとっている事から、大きさそのものは五間の三門と遜色無い。
亦、屋根の軒が深く伸びが大きいのも建物を一層壮大に見せる。

建築様式は一般禅宗様と然程変わらないが、屋根両端に鯱(摩伽羅ではない).中央に火焰宝珠を置き、三門左右の土塀には其々窟門が設けられている等、細部には黄檗宗独特の意匠が見られる。

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【写真上】天王殿。(重文)
寛文8年(1668)建立、桁行五間.梁間三間、一重.入母屋造、本瓦葺。
三門と大雄宝殿(仏殿)の間に置かれる、黄檗宗特有の堂宇。
他に見られる大棟部の装飾も無く、比較的和様の濃い建造物。
尚、特筆すべき点は建材に南方産の西域木(チーク材)が用いられており、山内では天王殿.大雄宝殿.禅堂の三宇が同材で建造されている。

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【写真上】大雄宝殿。(重文)
寛文8年(1668)建立、桁行三間.梁間三間、一重裳階付.入母屋造、本瓦葺。
近世禅刹の仏殿として一般的な方三間裳階付の形式。
創建当初は一重で上層は後年に加えられたものであるが、建物の均衡は崩れておらず、それとは解らない調和を保っている。
上層.裳階部の屋根のバランス、軒の伸びや反り具合も見事。

尚、前面一間の吹放ち天井を輪乗木の蛇腹天井としており、法堂.開山堂にも同様の手法が見られる。

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【写真上】大雄宝殿近景。(重文)
前面に儀礼様空間として、白砂敷き月台が附属しているが大きな特徴。
正面に扁額を掲げ、左右の柱に聯を作るのも黄檗宗独特のものであり、全ての主要伽藍に見られる。
屋根部の意匠、建材に就いては前述した通り。

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【写真上】法堂。(重文)
寛文2年(1662)建立、桁行五間.梁間六間、一重.入母屋造、桟瓦葺。
基本的には大雄宝殿と同様の手法を用いて建てられているが、桟瓦葺である為に他の主要伽藍に較べ軽快な感じを与える。
前面には白砂敷きの前庭が広がっており、形式的にではあるが儀礼の場である事が伺える。
中央の石條は総門より中心伽藍の中央、及び左右の諸堂宇を結んでおり、竜骨に擬えた石畳である。

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【写真上】法堂近景。
「円窓」「卍崩し勾欄」「巡照板」「角型礎盤」等、黄檗寺院特有の意匠。
「卍崩し勾欄」は中近世の寺院建築では類例が無く黄檗宗独特のものと思われがちだが、上代に遡れば法隆寺(三重塔.金堂)法起寺(三重塔)の勾欄に見る事が出来る。
恐らく大陸建築文化の輸入初期には中国様式をその儘模倣的に取り入れものが、その後は日本人の嗜好に合わず無くなっていったのであろう。

以上、本日は中心線軸上に並ぶ主要伽藍のみにて。
続きは亦明日にでも。

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2011.08.12

●古書の海in「糺の森」

ミヤコお盆の風物詩、「下鴨納涼古本まつり」が昨日より始まりました。

降り頻るものは「灼熱の炎天」「蝉時雨」。
揺らめくものは「馬場に舞う砂埃」「テントの裸電球」。
山となるものは「「駐輪自転車」「両手に下げたビニール袋」。
おっと、忘れてならないのが「納涼うちわ」に「冷やしカレーうどん」。
古本市の雰囲気を彩る「有形無形」のアイテムも何時も通りの事でしょう。

尤も私め、今夏は先月帰省済みなもので今年は「参加出来ず」。
うーん、残念無念です。

185750wu2j8libep_l木陰でのんびり古本探し 下鴨神社でまつり
せみ時雨が響き渡る下鴨神社(京都市左京区)の糺(ただす)の森に多彩な古本がずらりと並ぶ。うちわを片手に森の中を行き交う人々。じっくりとお目当ての本を買い求める至福の時間だ。
夏恒例の「下鴨納涼古本まつり」が11日、始まった。京都を中心に38店の古本業者が約80万冊以上のあらゆる古書を販売する。今年は東日本大震災の復興支援のため、100円均一コーナーでの売上金を義援金とする。
児童書コーナーも拡充され、かき氷などの露店もあり、家族連れの姿も多い。木陰でのんびり本を探す楽しみは電子書籍では感じられない。
16日まで。午前10時~午後6時(最終日は午後4時)。
(文.写真共 京都新聞8/11より)

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2011.08.11

●「二次元店舗」順調です

えー、何時もお世話になっております、無職歴一年半の弊亭酒司で御座います。

先程アクセスカウンターに目を遣ると、累計が「200,000」を超えておりました。
如何やら昨日付で大台を突破した模様です。

当初は「手慰み」の心算で始めた弊ウェブログ、指折り数えてみますれば彼是「4年7ヶ月」も続いてをりまする。
そんな訳で、日頃の御愛読に感謝の意を表す次第にて。

尤も「情報媒体」が幾ら健在でも「母屋」復活の方は未だ目途立たず。
そんな訳で、文字通り「本末転倒」な節目でありました。

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2011.08.10

●「音羽詣」続篇

えー、昨日の「護国寺」参詣記、続篇にて。

基本的には月光殿だけを観に行った様なものですが、折角なのでその他の建築物に就いても少し触れておく事に板島す。

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【写真上】仁王門。(区指定)
17C後半~18C前半建立、三間一戸八脚門.切妻造、本瓦葺。
ごく一般的な三間二間の八脚門。
江戸期建造、幕府祈願寺のものとしては簡素な造り。
将軍家御成りの際には、方丈方面の総門を使用したと思われる。

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【写真上】本堂。(重文) 
元禄10年(1697)建立、桁行七間.梁間七間、一重.入母屋造(向拝三間)、銅板葺。
全体的には和様形式の大型仏堂、所謂江戸期建築の典型。
古代から中世の様式を基調とつつ、華美な彫刻や彩色を施す。
同時期の寺社建築にありがちの行き過ぎた装飾にはならず、程々の調度に落ち着いているのは好感が持てる。

012_2【写真左】鐘楼。(区指定)
天和~元禄期(17C後半)建立、桁行一間.梁間一間、重層袴越付.入母屋造、桟瓦葺。

類例の多い一般的な鐘楼だが、全体的なプロポーションは良。
袴越部が縦板張りでは無く石積みを擬した人造石で作られているのが特殊だが、勿論近代以降の補作であろう。

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【写真左】大師堂。(区指定)
元禄14年(1701)建立、方三間一重.寄棟造、桟瓦葺。
【写真右】薬師堂。(区指定)
元禄4年(1691)建立、方三間一重.宝形造(向拝一間)、桟瓦葺。
堂宇の持つ役割自体は変遷しているものの、本堂と同じく創建時の伽藍。
幾多の罹災にも消失せず、元禄期建造物が現存している点では貴重な遺構。 
建築的には時代.様式共類例多く、特に解説無し。

010_2
【写真上】多宝塔。
昭和14年(1939)建立、方三間多宝塔、桟瓦葺。
中央間に板唐戸、脇間に連子窓を配した古典的様式。
下重の軒高が大きく上重径は可也細身のプロポーション、加えて組物が四手先。
これにより上層屋根の軒が塔身に対して深くなり、塔の安定感を増している。
屋根の反り具合、相輪高と塔身高のバランスも程好い。
近代建造の多宝塔としては出色の意匠、昭和を代表する仏塔建築と云っても過言で無いだろう。

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【写真上】御約束、例に由っての喫煙所一写。
この日は午前中から「かんかん照り」。
「肌刺す日差し」と「蝉時雨」が降り注ぐ夏日和で御座います。
境内を眺めつつ暫し一服、滴る汗を拭った後は急ぎ冷房の効いた地下鉄改札へと潜り込んだのでありました。

おはり。

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2011.08.09

●「神齢山」にて「長等山」詣

えー、昨日は節気.立秋。

色々と停滞しっ放しの私めを「置いてけ堀」に季節は流れているものでして、気付かぬのは己ばかりと云った感じで御座います、。
実は先月から夏風邪を拗らせてしまい、此処20日弱は自宅の半径100mを出ておりませんでした。

果たして「節気替わり」の「厄気祓い」と云う訳では御座いませんが本日は久し振りに「都内遊山」、午前中より音羽方面へ足を運んで参りました。
先月近江.園城寺の客殿二院を拝観した際、その繋がりで近いうちに訪れようと画策していたものでして。
そんな訳での「護国寺」参詣記で御座います。

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【写真上】月光殿.三景。(重文)
桃山後期(恐らく慶長期か)建立、桁行七間.梁間六間、一重.入母屋造.妻入(正面軒唐破風付)、桟瓦葺。

周知の通りこの月光殿は「旧園城寺.日光院客殿」で、明治20年頃に品川御殿山へ移築され、更に1928年(昭和3)護国寺に寄贈移築されたもの。 
園城寺「光浄院客殿」「勧学院客殿」とは同時代.同様式の建造とされており、確かに桁.梁の間数.屋根の形式は同似のものである。
しかしもしそうであったならば、数次の移築の際に徹底的に改悪されている模様。

屋根が杮から本瓦に葺替えられている(=勾配が強くなる)のは維持経費上仕方無いとしても、高床式の庇縁を破棄し、蔀戸.板扉を用いた柱間の設えを無味乾燥な火灯窓連に変えられているのは如何考えても頂けない。
亦、妻側玄関のものを移動した(と考えられられる)平側の軒唐破風は歪に突出しており、建物の美観を著しく損ねている。

結果、寝殿造の趣を色濃く残した外観は全く喪失されている。
但し上記は建物北面(目視部分)に関してのみ云える事であって、南面(庭側)に就いては広縁.中門廊が残されている点から、幾許か往時の寺観が残っていると思われる。

と、本日はこんな所処、続きは明日にでも。
今度機会があれば、内部を見学出来ないか社務所に聞いてみようと重い枡。
と云うか、東寺の「観智院」行った方が早い鴨…。

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2011.08.07

●続々.園城寺にて

えー、先日帰京の後日談.7月18日分その参。

台風6号接近の影響で雨風降り敷く月曜日、私めは一路近江国に。
逢坂の関を越え、「湖西の天台寺院」へと足を運んで参りました。
そんな訳での「三井寺参詣記」.最終篇で御座います。

017_2【写真上】参道より唐院境内を望む。
唐院は宗祖円珍の廟所である大師堂、密教道場である潅頂堂と護摩堂、及び三重塔からなる。
主要伽藍群の最上所に位置し、寺内で最も重視されている区域である。

写真は唐院四脚門。(重文)
寛永元年(1624)建立、四脚門、切妻造.檜皮葺。
当初は棟門形式の総門であったが、四脚門に変更された。
慶長期の伽藍復興の際、応急で造ったものを院の格に合わせて改められたものと思われる。

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【写真上】唐院潅頂堂。(重文)
寛永元年(1624)建立、桁行五間.梁間五間、一重.入母屋造、檜皮葺。
伝法潅頂に加え、大師堂拝殿としての役割を併せ持つ。
内裏.仁寿殿を下賜されたものと伝えられ、簡素な中にも寝殿造の趣が強い和様建築。

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【写真上】奥院全景。
潅頂堂の左には長日護摩堂、奥には大師堂。
密教寺院としての体裁が良く整えられている。
護摩堂は寛文6年(1666)建立、方三間、宝形.本瓦葺の県指定建造物。

020【写真上】三重塔(重文)
室町前期建立、三間.三重塔婆.塔高24.7m、本瓦葺。
本来は奈良.比曽寺の塔婆、伏見城に移築したものを慶長6年(1601)に再移築された。

軒回りや組物の手法は総じて和様で、古典的な様式。
初重のみ高欄付きの縁を廻らし、軒深を大きくとっている為に塔全体の安定感が増して見える。

南北朝期の建立で山内最古の建造物。





唐院を出た辺りで雨足が更に激しくなり、撮影は面倒なので終了。
この後は山内子院を巡拝、小一時間して漸く観音堂に到着致しました。

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【写真上】観音堂全景、左より手水舎.観音堂.百体堂。
寺域の南端側に位置し、西国三十三箇所観音霊場の第14番札所として知られる。
観音堂は礼堂.合の間.正堂の三棟よりなり、元禄2年(1689年)建立。
概ねの寺観はこの時期に整えられたと思われる。

観音堂.百体堂(百体観音堂).鐘楼(童子鐘).観月舞台が県指定、手水舎.絵馬堂.地蔵堂は市指定建造物。

001【写真上】同おまけ.御約束の喫煙所。
山内唯一?の一服所処。
漸く此処で雨露を凌ぎ、暫しの休憩。

この後は横殴りの雨の中、鎮守社の新羅善神堂まで足を運ぶのですが、何と修復工事中。
ビニールシートに覆われた姿に項垂れ、無駄足を惜しみつつ帰路に着くのでした。

以上、こんな感じでした、おはり。

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2011.08.06

●続.園城寺にて

えー、先日帰京の後日談.7月18日分その弐。

台風6号接近の影響で雨風降り敷く月曜日、私めは一路近江国に。
逢坂の関を越え、「湖西の天台寺院」へと足を運んで参りました。
そんな訳での「三井寺参詣記」.続篇で御座います。

049_2【写真左】参道一写。
金堂から光浄院へ下る石階段。

「鬱蒼と繁る樹木群」「鈍黒の光沢を放つ甍」「一面に敷き詰められた砂利道」。
そして「苔撫した石垣や石段」…。
少し計り足元が悪くとも、仏刹や神社は雨濡ち空気湿っていた方がより一層風情のあるものです。

実はこんな強雨の日に訪れたのも、実は確信犯なものでして。

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【写真上】土塀越しに望む光浄院客殿。(国宝)
【写真下】同.二脚門(勅使門)より眺む。
慶長6年(1601)建立、桁行七間.梁間六間、一重.入母屋造.妻入(正面軒唐破風付)、
総杮葺。
桃山期を代表する書院造建築物として極めて貴重。
蔀戸や中門廊を残してている等、外観は寝殿造の色合いが多分に残るが、五間ある殿内の部屋割りや上座に書院が設けられている点では書院造(住宅建築)への移行要素が強い。
尚この様に寝殿造が書院造へと変化する過程の様式を、主殿造として分類する場合もある。

類例としては東寺.観智院、少し趣が変わるが瑞巌寺や醍醐寺三宝院など。

046【写真上】光浄院客殿.近景。
園城寺山内には三棟の国宝建造物(を含むと四棟)がありますが、しかし前述の金堂以外は通常一般公開されていません。

数年前の特別公開時に拝観した事はあるものの、今回は塀越しの鑑賞のみ。
…の筈だったのですが、嬉しい誤算発生。
偶々用事で院内に入っていく工務店さんが一言。
「一寸位だったら覗いていく?」。

そんな訳で前庭辺り迄入れたのでした。

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【写真上】同.全景。
二脚門の延長線上に軒唐破風を付した車寄が設けられており、此処が客殿の正式な入口である。

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【写真上】参道石段より見上げる一切経蔵。

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【写真上】一切経蔵.全景二写。(重文)
室町中期建立、桁行一間.梁間一間、一重裳階付.宝形造、檜皮葺。
大仏刹の伽藍でで基壇が乱積なのは珍しい。
慶長7年(1602年)、山口.国清寺の経蔵を移築したもので、山内唯一の純禅様建築物。
裳階部庇の出が非常に大きく方一間とは思えない程の規模、中位禅刹の法堂と云っても差し支え無い程。
屋根が宝形、軒も板軒と建物の格は高くは無いが、何より均衡のとれた外観が美しい。

この後は雨足が強くなる中、唐院へと向かいました。
続篇は亦後日にて。

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2011.08.05

●園城寺にて

えー、先日帰京の後日談.7月18日分その壱。

台風6号接近の影響で雨風降り敷く月曜日、私めは一路近江国に。
逢坂の関を越え、「湖西の天台寺院」へと足を運んで参りました。
そんな訳での「三井寺参詣記」で御座います。

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【写真上】琵琶湖疏水。
琵琶湖側の取水口から第1トンネルにかけての水路。
京阪線の三井寺駅より園城寺に向かう参道横を流れています。
まぁ理屈いでは解っていても、勾配を遡上する河流を見るのは変な感じでして。

「鬱蒼と生い茂る樹木群」「滔々と流れる疎水」「閑静な門前町」…。
寺域周辺の風情は濡つ雨も相俟って中々と良い風情で御座います。

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【写真上】釈迦堂(食堂)二写。(重文)
室町中期建立、桁行七間.梁間四間、一重.入母屋造(軒唐破風付)、檜皮葺。
天正年間造営の御所清涼殿を元和7年(1621)に移築したものと云われるが、それにしては簡素で小規模。
御所からの拝領としても大きく手を加えられたか、若しくは清涼殿以外の付属建物であったと思われる。
元来は食堂が建てられていた地に移築された為に同様の名が付いているが、可也早い時期にその機能は廃れ、釈迦堂として活用されている。
尚、軒唐破風は文政13年(1830)に付加されたもの。

054【写真左】境路より眺む金堂。
中心伽藍である金堂は、大門.釈迦堂より一段高い場所に建てられており、参道を進むに従って入母屋破風の威容を伺う事が出来る。

因みに大門は修復中の為、工事用シートに覆われて拝観出来無い状態でした。

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【写真上】金堂三景。(国宝)
慶長4年(1599)建立、桁行七間.梁間七間、一重.入母屋造(向拝三間)、檜皮葺。

東寺金堂や仁和寺金堂等と並び、桃山時代を代表する大規模建築の仏堂。
写真では解り難いですが兎に角大きい。
「急勾配の大屋根」「大きく裾の拡がった入母屋破風」「人の背丈程もある高い軒」等、同時代の大寺社建築の特色が良く現れている。

亦、この時代は基本的に折衷様式で建造されており、同金堂も禅宗様の組物を使い、木鼻.蟇股や欄干の意匠は桃山様式の影響が見られる等、様々な手法が持ち入れれているも、総じて和様に纏められている。

因みに現金堂は欠所消失する以前の仏堂(延暦寺転法輪堂)と同位置.同規模での再建となったが、四囲を廻っていた回廊は復元されなかった。

053_2【写真左】鐘楼(重文)。
慶長7年(1602)建立、桁行二間.梁間一間、一重.切妻造.檜皮葺。

鎌倉期以降良く見られる切妻.柱立の簡略化された鐘楼建築。
但し桁二間.六本柱のものは類例が無く珍しい。
日本三名鐘の一つ「三井の晩鐘」を吊る。

039【写真上】閼伽井屋(重文)と井泉。
慶長五年(1600)移築建立、桁行二間.梁間三間、一重.向唐破風造、檜皮葺。

金堂西に接立する井泉の覆屋。
慶長期に御所の御輿寄を拝領.移築したとされる。
小堂ながらも平反りに近い向唐破風屋根を持つ瀟洒な祠。

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【写真上】閼伽井屋内部の井泉石組。
湧泉周辺は自然石が程好く配置されている。
恐らく覆屋建造の際に改めて整えられたものとされる。
【写真下】閼伽井屋北側横の石組。
緩傾斜の野筋に自然石の三尊石は、初期枯山水の石立を彷彿とさせる。
勿論天然の遺構では無く、人工的に整備された石組である。

元来、閼伽井は野天にあったものを風雨の流害を防ぐ為に覆屋で囲ったもので、北側の石組みと連接していたと思われる。
勿論後ろの通路も無かったであろうから自然の傾斜を築山とし、井泉に対して遣水を見立てた石立でだったのであろう。

この後は伽藍中心部から光浄院.経蔵へと向かいました。
続篇は亦後日にて。

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2011.08.04

●くにのみやこは ころもうつらん

えー、先日帰京の後日談.7月17日分その四。

南山城.加茂三塔巡りの最終地は海住山寺。
参詣を終えた帰りは「歌枕」の地を漫ろ歩き、恭仁京跡に立ち寄る事と致しました。
と云う訳で、「みかのはら」「いづみがわ」逍遥記で御座います。

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【写真上】海住山寺の参道、三上山中腹より南望する「瓶原」。
こうして見ると、正に奈良からは「山の背=山背=山城」。
白鳳天平の御代、京都なぞは此処よりよっぽど「遠隔の田舎」だったのでしょう。

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【写真上】同.田園風景。
嘗てミヤコがあったとは思えない程、長閑なもの。
往時の遺構は殆どが田地の下に眠っています。

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【写真上】恭仁宮跡(山城国分寺跡)。
海住山寺と加茂駅の中間位置、徒歩にて約20分。
現在は史跡らしい施設も無く、大極殿(金堂)と七重塔跡の礎石が残されるのみの「原っぱ」となっています。

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【写真下】同.大極殿(金堂)の礎石跡。
因みに遷都を実行したのは聖武天皇。
しかし大極殿が完成した所処で造営は中止、結局都として完成する事無く恭仁宮は破棄されてしまいます。
更にその後も遷都を繰り返し、結局五年後には平城京に戻る破目になりました。
その行程を簡易年表に直してみると…。
 740年(天平12)12月 平城京より恭仁宮に遷都。
 742年(天平14)08月 紫香楽に離宮造営、行幸.滞留。
 744年(天平16)02月 難波京に遷都。
 744年(天平16)02月 紫香楽宮に行幸.滞留。
 745年(天平17)01月 紫香楽.甲賀宮に遷都。
 745年(天平17)05月 平城京に遷都。
 745年(天平17)08月 難波京に行幸。

文字通り「右往左往」「紆余曲折」、何か悪い事が起こる度に「お引越し」されるのですから、官民にとっては共に大迷惑です。
しかも遷都後には落ち着く間も無く、次の「引越し先」探し。
若しも「大仏を造らず」「カミさんが無名の人」だったら、稀代の悪政帝としてその名が残っていたかも知れません。

尚、廃都後の恭仁宮は既に造られていた山城国分寺を同地に施入する形で再利用、大極殿は金堂に転用されます。
しかし寺史縁起は興福寺のものに若干の名が残るだけで殆どが不明、江戸期を待たずに廃れてしまったと思われます。

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【写真上】恭仁京跡の西側に隣接する「恭仁小学校」。
【写真下】同.講堂。
木造の校舎は昭和11年築造、全校生徒約60名との事。
昔乍らの懐かしい趣きが残る小学校、板張り廊下の「油の匂い」や「軋む音」が思い出されるものです。

051_2【写真上】小学校横のたばこ屋さん。
此方も昔乍らの佇まい、住職兼用の雑貨屋さんです。
開けっ放しの引き戸に店番不在の無用心さが、田舎っぽくて亦宜しく。

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【写真上】恭仁大橋より「いづみがわ」を笠置方面に眺む。
現在の木津川は嘗て「大川」と、更にその昔には「泉川」と呼ばれていました。
恭仁京自体は四年に満たない短命の都でしたが、この「いづみがわ」を詠った歌は天平から平安時代にかけて数多く残されており、「歌枕」としてその名を留めています。

と、こんな所処でした。

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2011.08.03

●加茂三塔巡礼「海住山寺」

えー、先日帰京の後日談.7月17日分その参。

三連休中日の日曜日、焔威振るう極暑の中は南山城へ。
八年振りに「加茂の里」、真言仏刹三塔を巡拝して参りました。
そんな訳での三山遍路記その三、「海住山寺」篇で御座います。

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【写真上】五重塔.近景三写(国宝)。
建保2年(1214)建立 三間五重塔婆.裳階付.塔高17.7m 本瓦葺(裳階部銅板葺)。
鎌倉期建造の五重塔唯一の遺構。
特徴として初重に吹放しの裳階を設けており、現存する裳階付きの層塔は法隆寺(五重塔)、薬師寺(三重塔).安楽寺(八角三重塔)だけである。

亦、造営の目的が「仏舎利安置」と本来の塔婆建造の意図に則ったもの。
それもあり五重塔としては最小規模の五重塔の部類(室生寺に次ぐ小型五重塔)で、組物は各重二手先となっている。

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【写真上】同.南西側より、この辺りからの構図が最も麗姿に映る。
初重が方九尺.二手先と小型の上に全体的に細身の塔姿。
屋根部の逓減率が大きいのと、二重以降の層高が迎えられている事で諧調のとれた整律さを感じる。
亦、初重の裳階が安定感を、四囲縁の吹放ちが軽快感を与えている。

全体的に純和様を踏襲した平安好みの建築だが、南都仏教の古色も感じる瀟洒な五重塔。
因みに裳階部は室町後期から桃山期頃に撤去されていたが、昭和30年代の修復時に旧態を復古したもの。

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【写真上】文殊堂。(重文)
鎌倉前期建立 桁行三間.梁間二間、一重.寄棟造、銅板葺。
山内もう一棟の古建築、五重塔と同時代からのやや後時代のもの。
寄棟.白壁塗と、装飾的要素の少ない小堂。

元来は経蔵としてあったものだが、時代が下るに従い経典収蔵機能を喪失、堂宇の役割が変わっていったものと思われる。

と、こんな所処にて。
この後は恭仁京跡へと向かいました。

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2011.08.02

●八月朔日

「お目出度い」日のミヤコでは、旧家や老舗の玄関に二色の祝幕が飾られます。
この装いが見られるのは「お正月」「宵山」、加えて花街では「八月一日」にも。

と云う訳で昨日は「お茶屋さん」の門前に祝幕が掛けられました。
夏の花街風物「八朔」、黒絽織五つ紋付の正装にて御挨拶廻りの日です。

「おたのもぉーしますぅー」
「おめでとさんどすぅー」
「いつもおせわになってますぅー」
「おめでとさんどすぅー」

舞妓さんも今日計りは、襟足三本、奴島田の身仕舞いにて。

20110801145107019真夏にきりり芸舞妓華やか 
京都の花街で「八朔」
芸舞妓が、日ごろ世話になっている師匠やお茶屋を回ってあいさつする「八朔(はっさく)」が1日、京の花街であった。京都市東山区の祇園町かいわいでは、黒紋付き姿の芸舞妓が行き交った。
午前9時半ごろから日傘を手に芸舞妓が出かけていった。お茶屋を次々と訪れた芸舞妓は「おめでとうさんどす。相変わりませず、おたのもうします」と感謝の思いを伝えた。
通りでは、正装できりりと引き締まった姿の芸舞妓に多くの写真愛好家がカメラを向け、にぎわいをみせていた。
八朔は旧暦で8月1日の意。本来は豊作を願う行事だったが、現在は新暦で行う花街のあいさつ回りが習わしとなっている。
(文.写真共 京都新聞8/1より)

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2011.08.01

●「祇園祭」終わりました

昨日は八坂さんにて「夏越祓」。
「吉符入り」より始まった祇園祭も、「茅ノ輪潜り」を以って無事に「結び」となりました。
「宵山の喧騒」や「祇園囃子」「売り唄」…。
僅か半月前の事ですが、随分前の事の様に思えるものです。

そんな訳で、ミヤコの七月は「@」云う間に過ぎて行くのでした。

20110731230303002_2祇園祭終幕 茅の輪くぐり 
八坂神社で夏越祭
1カ月にわたる祇園祭を締めくくる「夏越祭(なごしさい)」が31日、京都市東山区の八坂神社境内の疫(えき)神社で営まれた。参拝者は祭りが無事終了したことを感謝し、茅(ち)の輪をくぐって無病息災を願った。
夏越祭は、八坂神社の祭神の素戔嗚尊(すさのおのみこと)が旅の途中に蘇民将来にもてなしを受け、返礼にその子孫の疫病を退散する約束をしたという伝承にちなむ。
神事には山鉾巡行や神輿(みこし)渡御の関係者らが参列。森壽雄(ひさお)宮司は「東日本大震災の復興を祈念した今年の祇園祭を滞りなく奉仕でき、感謝申し上げる」とあいさつした。
参列者は鳥居に設けられた直径約2メートルの茅の輪をくぐり、カヤや「蘇民将来之子孫也」と書かれた護符を持ち帰った。
祇園祭山鉾連合会の吉田孝次郎理事長は「切れ目なくお祭りを続けられ、喜んでいる。今日から来年に向けて準備を始める」と気持ちを新たにしていた。
(文.写真共 京都新聞7/31より)

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