●甲州路巡礼「向嶽寺.恵林寺」
えー、先日の後日談。
先週木曜日は甲州路にて「古建築巡り」。
「清白寺」「大善寺」を廻った後は塩山駅を経由して北進、「塩ノ山」山麓の臨済禅刹へ向かいました。
そんな訳での五寺巡礼その三.四「向嶽寺.恵林寺」篇。
先ずは塩ノ山の麓、向嶽寺で御座います。
【写真左】中門。(重文)
室町中期建立、四脚門.切妻造、檜皮葺。
山内に残る唯一の中世建造物。
上棟迄伸びた親柱、柱結に海老虹梁を用いる等、典型的な禅宗様式の四脚門。
四脚門としては大規模の部類、亦総門形式のものとしては珍しく石積壇上に立つ。
左右に伸びる築地塀は県指定。
【写真上】仏殿兼開山堂。(市指定)
仏殿/天明7年(1787)建立、桁行3間.梁間3間、一重裳階付.入母屋造、銅板葺。
正面から見ると一般的な方三間仏殿だが、仏殿と開山堂を合棟し一体化させた特殊な構造、合称して祥雲閣と号する。
様式は大幅な略化.変形を伴った禅宗様。
柱間には桟唐戸と花頭窓を配すも壁面は土壁、軒廻りは簡易な出組詰物と二軒垂木とし装飾的趣向は見られない。
尚、平成22年10月に修復工事が終了した計りである。
【写真上】同.側面より。
開山堂(後部)/同年建立、桁行4間.梁間正面3間.背面6間、一重.寄棟造、銅板葺。
寄棟造の妻前面に楼閣が建った様な構造、規模や用途は異なるが撞木造的な要素も想起させる。
内部は間仕切りや陣割の無い平面構成、裳階の後方桁4間部が開山堂となる。
【写真上】中門と仏殿の中間、三門礎石跡。
三間一戸の八脚門、二重門か楼門形式であったと思われる。
因みに伽藍群は東を正面とし「中門‐仏殿‐方丈.書院」が一直線に配置される禅宗様式、その南側には.鐘楼.庫裏等が並ぶ。
しかし近世以降、天明6年と大正15年の火災により主要堂宇は尽く焼失、中門と仏殿以外はその殆どが昭和期の再建に由るものである。
この後は「信玄のみち」を北上、恵林寺へと向かいました。
【写真上】中門。(重文)
慶長11年(1606)建立、四脚門.切妻造、檜皮葺。
「黒門」に比対して、その漆色彩から「赤門」と称される。
親柱.控柱の構造、柱下の礎盤、海老虹梁による結柱等、典型的な禅宗様四脚門。
桃山期の建造であるが、様式的には室町建築の延長に止まる。
【写真上】三門。(県指定)
江戸初期建立、一門一戸.四脚楼門.入母屋造、柿葺。
四脚楼門形式の三門、小規模禅刹では類例が散見する。
但し準十刹寺格の三門としては余りに粗略で、恐らく旧三門焼失後に鐘楼門として用いられていたものを移築.転用したと思われる。
その所為もあり、上層下層の柱高比や屋根軒出と主屋の均衡が悪く、安定感にも欠ける。
因みに同地域では笛吹.慈眼寺が恵林寺と同様、鐘楼門を三門として用いている。
【写真上】本坊方丈庭園.中央より西側を望む。(国指定名勝)
方丈の北面に展開、池泉回遊式庭園の形をとっているが鑑賞本位である。
【写真上】同.中央より東側を望む。
この恵林寺庭園、由緒は開山「夢窓国師」作の築山泉庭。
但し現在の庭観からは、浄土思想や禅修業の厳格さを具現化した国師独特の作庭意匠は見られず、柳沢吉保によって江戸中期に整えられたものが原型となっている。
具体的には「中島」「雌瀑布滝口」の石組や「「飛石」反石橋」の意匠等は武家色の強い江戸期の作庭技法。
庭全体の構成も表層的な見栄えを重視した築庭に止まり、精神性豊かな内的作意は全く感じられない。
【写真上】同.庭園西側の滝口周辺と築山。
若しも国師作庭の名残があるとすれぱこの辺り、「雄瀑布滝口」と上部「築山の普陀落山」位であろうか。
上段を枯山水、下段は池泉形式とした庭園二段構成は国師の好んだものであるし、石組は室町期の手法と見れなくも無い。
但し瀑布周辺に乱立する石立に加え、築山にも小煩い石組が多く、後世に大きく手が加えられているものと考えられる。
と、こんな所処にて。
この後は遥か大菩薩峠の山麓、雲峰寺へと向かいました。
続く。