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2012.01.21

●法華寺から「海龍王寺」へ

えー、正月帰京の後日談。
1月8日は「平城京新春マラソン」に参加した際の事。
正午前にレース完走、西大寺北口の喫茶店で「お茶」した後は佐保路を東進。
法華寺町周辺の古刹を巡って参りました。

そんな訳での「南都.北一条巡礼」その三、「海龍王寺篇」になります。

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【写真上】西金堂。(重文)
奈良時代(8c中)建立、桁行三間.梁間二間、一重.切妻造、本瓦葺。
約27㎡の小規模金堂ではあるが、数少ない天平期金堂建造物として貴重な遺構。
惜しむらくは鎌倉期に於ける改修で大幅に手が加えられ、創建時の姿は可也損なわれており、組物.軸部.柱間装置等の主要部材は殆どが後補に由るものである。
但し堂宇規模と基本的な形状の変更は無く、壇上積の基壇や緩勾配の屋根から上代の金堂建築様式を窺う事が出来る。

3
【写真上】同.側面より。
二重虹梁蟇股の架橋は天平建築の典型。
しかし旧例を踏襲してはいるものの、これも鎌倉期の改修に由るもの。
虹梁が全体的に水平になっている点と貫材が追補されている事により、本来持っていた軽快な感じはやや損なわれている。

2
【写真上】同.近景。
組物は平三斗も、三斗の高さが中世様式の低いものとなっている。
「頭貫の木鼻」「板扉軸部の藁座」「軒先の鼻隠板」も大仏様の手法で鎌倉期の補修に由るもの、大型の連子窓も後補造作である。
亦、軸部横材も長押では無く貫で構成されており、創建時の意匠を窺い知る事は出来無い。

尚、明治期迄は本堂を挟み東面して東金堂があったが、明治初期に廃仏毀釈運動の余波を受け失われた。

4
【写真上】五重小塔。(国宝)
天平時代初期(8c前半)建立、三間五重塔婆、本瓦形板葺、塔高4.01m。
西金堂内に安置されており、天平期唯一の五重塔遺構。
同時期塔婆としても薬師寺東塔と並び二例しか現存しておらず、上代建築手法の進化過程を知る上で重要な遺例である。

相輪迄の塔高が約4m(基壇除く)、実物の1/10寸法で造られている。
但し台輪から上部を箱造りとし、組物や軒廻りは外から張り付ける形式で内部構造や各層板扉は省略されている。
この点から、実寸建築の雛形模型としてでは無く、実物塔の代用として室内奉祀目的に造られたものと考えられ、従い金堂自体が覆堂としての性格を持っていたと云える。

Photo_2【図面左】図面比較。
上記の様に工芸品的性格の小塔と云う事から、柱間割付や組物間隔など構造上の問題は無視出来るので、塔婆全体のバランスは完璧に近い。
加えて真反りに近い屋根形状と深い軒出が一段と安定感を増して見せる。

因みに平面逓減率は0.45と薬師寺東塔(0.41)に次ぐ大きさで、全体的なプロポーションも近似しているが、組物の収まりに然程の無理詰感が無い点や、最上層を三間としている点は前述理由に由るものである。

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6
【写真上】同.近景二写。
斗栱は元より、腰組跳高欄に軒廻りの地円飛角、屋根の隅棟.稚児棟に至る迄、精巧に造形されている。
組物は支輪桁の無い初期三手先で薬師寺東塔に近い様式だが、二段目肘木上に中巻斗が加えられており、その配置は秩然とした整いを見せる。
亦、肘木の舌も消えており、原始的三手先からの発展過程が窺える。

因みに薬師寺東塔に初めて見られる三手先組物は、海龍王寺五重小塔を経て唐招提寺に於いて一応の完成を見、更に當麻寺東塔.元興寺五重小塔から平安期にかけて整備されていく。

7
【写真上】本堂。(市指定)
江戸前期(17c前中盤)建立、桁行五間.梁間四間、一重.入母屋造、本瓦葺。
嘗ての中金堂跡に位置する。
組物.軸部等構造上の手法は折衷様からなるも、西金堂.経蔵との調和を考えてか全体的には和様の色合いが強い。
内部の平面構成も三間二間の主屋に庇を廻す古代的なものだが、中央を内陣、周囲を外陣.脇陣とする中世密教本堂形式となっている。
P1070256
【写真上】経蔵。(重文)
正応元年(1288)建立 桁行三間.梁間二間、一重.寄棟造、本瓦葺。
軸部や組物等の様式は西金堂と酷似しており、改修の同時期かやや下っての造営と思われる。
構造は三間二間の一般的経蔵であるが、寄棟.高床式の外観形状は唐招提寺や東大寺の校倉造経蔵を想起させるものがあり、それ等を範としたのかも知れない。

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【写真上】同.近景。
頭貫木鼻は大仏様、出三斗には肘木や笹繰に珍しく禅宗様の影響が伺える。
基本的には簡素な構造で好感が持てるが、上代のものと較べると木割の細さや貫材の煩わしさが目に付き、明朗且つ力強い建築美は失われてしまっている。

と、こんな所処にて。
この後は一条通りを更に東進、「不退寺」へと向かったのでした。

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