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2012.01.18

●法界寺にて

えー、先日帰京の後日談。

新年を向かえ、三ヶ日は只管「飲んで」「食べて」「観て」「寝て」のグータラ三昧。
そんな「怠惰の日々」から脱却すべく、明け水曜日は一寸遠出をする事に。
お昼前より洛中を横断、山科の南は日野法界寺迄足を運んで参りました。

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【写真上】阿弥陀堂.(国宝)、全景二写。
鎌倉前期(13c前半)建立、桁行五間.梁間五間、一重裳階付、宝形造.檜皮葺。
13世紀前半の再建、中世浄土教.阿弥陀堂建築の代表的遺構。
方五間の四囲に一間通りの裳階を廻らし「方七間の重層」とも見えるその外観は、方三間が殆どの現存阿弥陀堂の中で最大規模を誇る。

建築様式的には「一間四面の宝形造」「檜皮葺」「屋根頂に宝珠露盤を置く」等、平安後期の阿弥陀堂様式に則って造営されているが、定法を踏襲しつつも平面構成や立面意匠はそれを発展.進化させたものとなっている。
中でも特に注目すべきは柱間.柱筋が四面其々に異なる点で、同時期仏堂として類例が少なく(愛媛.大宝寺等)非常に珍しい。
これにより前代の阿弥陀堂建造物に較べ、自由な平面構成を可能にすると共に、立面意匠に変化を与える大きな要因となっている。

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【写真上】同.正面中景と近景。
正面柱間は全て格子の蔀戸。
平安期邸宅建築の影響によるもので、同時期の本堂建築に類例が見られる。
裳階屋根の正面は中央を一段上げる跳ね上げ屋根形式。
平等院鳳凰堂や厳島神社にも見られる天平古式に則った手法である。

主屋.裳階共に、組物は平三斗.中備は間斗束。
肘木上に乗る三斗は平安期より可也低いものとなっており、様式の中世化が窺える。
亦、柱間が異なる為に同一線上に位置していないのが見てとれる。

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【写真上】東側面。
主屋の丸柱に対し裳階部には大面取の角柱を配する事により、吹き放ちの開放感も相俟って外観を一層軽快に見せる。
然程高さの無い堂宇にも関わらず、軸部(縦線)のメリハリが利いているのはこの手法に由るものである。

尚、廂下の吹き放ちは嘗て正面のみが吹き抜けで、側面と背面には小部屋(恐らく参篭用)が設けられていた痕跡が残っている。
側面の柱間装置が其々異なっている(西側.蔀戸.東側.引違戸)のは、これに起因すると思われる。
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【写真上】斜側面より近景。
基本的に組物や柱間装置に特筆すべき装飾性は無く、簡素な造りである。
にも関わらず阿弥陀堂としてのみならず、同時期建立の仏堂建造物としても群出した優雅な佇まいを醸しだしている。
「緩やかな檜皮屋根勾配」「軽快に差し上げられた裳階屋根」「正面柱間に施された蔀戸」「裳階下四方吹放ちの縁」…。
これら意匠要素を洗練されたバランス感覚で纏め上げた見識が、装飾技巧を上回っていると云える。
勿論それは、藤原氏を始めとする王朝貴族の審美眼があってこそのものである。

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【写真上】本堂(薬師堂)。(重文)
康正2年(1456)建立、桁行五間.梁間四間、一重.寄棟造、本瓦葺。
明治37年(1904)、大和斑鳩の伝燈寺本堂を移築したもの。
旧規に則った寄棟造屋根、柱間は板扉.連子窓とする等、外観は和様を主として造営されているが、擬宝珠付高欄の様式や屋根勾配から中世仏堂であることを窺わせる。

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【写真上】同.組物二写。
組物は出三斗、木鼻や藁座に禅宗様式の影響が見てとれる。
中備は両側面の板扉上にのみ板蟇股を配し、それ以外は全て間斗束。
蟇股の繰形や間斗束の斗絵様からは、南北朝以降の手法が確認出来る。

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【写真上】総門より境内を望む。
創建当初、法界寺には少なくとも四つの阿弥陀堂が寄進建立(中右記)されており、その他薬師堂.観音堂.塔婆等の諸堂宇が整備された壮大な伽藍群を誇っていた。
しかし御多分に漏れず、承久の兵火等で一山全焼。
その後鎌倉初期に再建したもので、唯一現存しているのが阿弥陀堂である。
従って阿弥陀堂建造物と対となる浄土式庭園は現在見る影も無く、境内南側に矮小な苑池が残るのみとなっている。

と、こんな所処にて。
この後は小一時間掛けて旧奈良街道をてくてく北上。
嘗ての寺領争いの仇敵、「醍醐寺」へと向かったのでした。

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