●月日は百代の四脚門
えー、二泊三日の白馬遠征を終え、昨日帰途に就いた私め。
但し今回は「帰東」では無く「帰京」で御座います。
腐れ伝染病(と云うより、ソレに対する莫迦げた対策)の所為でお店は一時休業中。
「やる事Nothing」なトーキョーに戻っても仕方無いので、10日ばかりの帰省(寄生)生活に入る事に致しました。
上洛初日のミヤコは朝からシトシトと降り止まぬ糠雨、絶好の仏滅日和。
ジョグするには億劫なお天気ですが、ずーっとインドアなのも身体が鈍って困りモノ。
そんな訳で切れた莨の買い物がてら、雨のお散歩に出掛けたのでした。
なのに、ホントに人っ気の無い事…。
まぁ本来、1月中旬~2月末のミヤコは一年を通じて最も「観光の閑散期」。
インバウンドゲスト(特に国の大型連休が絡む中国とオーストラリア)の恩恵により繁忙期になったのは此処近年の事です。
ですから訪日客が消滅してしまうと、ド暇に戻るのは自明の理。
加えて「Goto停止」で王手飛車取り、更には「緊Q事態宣言」発令で詰み。
清水と並ぶ超弩級観光エリア.嵯峨/嵐山ですら、ゴーストタウンを思わせる「シャッター通り」となっているのでした。
ソコソコあります。
ココは開いて(動いて)なきゃ困りますよね。
人(街)の不幸で飯食う様な写真ばかりでは、どーも宜しくありません。
そんな訳で頑張ってるお店さんたちも何枚か収めておきました。
因みに嵐山のメインストリート(長辻通り)の開店/休業お店比は大体半々。
ただ、平日はもう少し減るんだろうなぁ。
天龍寺.勅使門(府指定)。
造営/桃山期.慶長年間(1596~1615)切妻.檜瓦葺、四脚門(付.築地塀)
御所.明照院だったものを寛永18年(1641年)に下賜移築。
桃山期の寺院建造物としてこれほど反りの大きい切妻造は珍しく、この点からも元来の御所御門様式が見て取れる。
軽快な屋根反りから、移築前は檜皮葺きだったであろう。
木組構造や彫刻装飾は普遍的禅宗様、築地塀は移築後に附設されたと思われる。
幕末は長州藩の屯所となっていた天龍寺。
禁門の変で長州が敗走、戦いの趨勢は決しているのに薩摩と会津が止めの焼き討ち。
五山第一の名刹は主要伽藍焼亡の憂き目に遭ってしまいました。
この小さな四脚門だけが罹災を免れ、寺内唯一の古建築として現存。
寛永年間より嵐山の歴史を見守り続けているのです。
400年近くの間には「幕末の争乱」や「世界恐慌」や「後の戦争」etc…。
勃発から収束まで数年~数十年の歳月を要した「負の歴史」も数多積み重ねられてきました。
それに較べりゃ「武漢産.腐れ伝染病」はその発生から未だ一年。
少なくとも市井が燃えない分「応仁の乱」よりはカワイイものでして。