●Look back「2024.November」
えー、サボリにサボウルを続けていた武蔵野口のバア.二次元日誌。
師走に入り漸く「平常運転.再開(の兆し)」で御座います。
今年は何故だかキーボードを打つのに気乗りのしない残暑~晩秋の頃。
気付けば約三ヶ月の間、ほぼ「放ったらかし」にしていた弊ブログなのでした。
そんな訳で休眠期間中、陽の目を見ずに溜め込んでいたスナップ集を纏めてUp。
「Remember November」、2024年11月の回想録になりまする。
愛宕さんと北嵯峨田園、そして例のヤツら。
11月18日~21日はお店臨休、実家の諸事情にてミヤコ帰京しておりました。
因みにウチの近所はミヤコでも屈指の紅葉名勝所処「嵐山」。
錦秋最盛には未だ早いにも関わらず「天龍寺」「渡月橋」「長辻通」「中之島公園」周辺はスーパーオーバーツーリズム状態。
通勤時間の新宿駅並みの人口密度で、とても近寄れたモンじゃありません
そんな訳で日中の空いた時間、デイリーランのコースは釈迦堂~大覚寺~広沢池の北嵯峨エリアをチョイス。
基本的にシーズン問わず、丸太町通の北側に観光客の姿は殆ど見られないのでした。
広沢池。
今年の紅葉はイマイチの彩、まぁこんだけ夏が暑くで長けりゃ色付く前に茶色くなっちゃいますね。
因みに池東岸はヤヤコシイ方々(某教団)が買収して立ち入り禁止です。
諡号が示す通り、同地にとって嵯峨天皇は大恩人。
皇子の頃から嵯峨野一帯は御領地であり、即位後には離宮.嵯峨院を造営。
御上になられても度々行幸、譲位後は仙洞とし移り住まれました。
その後の嵯峨院は大覚寺となり、淳和.宇多.後嵯峨.後宇多.後醍醐天皇ら所縁の門跡として歴史の表舞台にも度々登場します。
後嵯峨院の御代以降、大覚寺の寺運は衰えますが、天龍寺.臨川寺.宝幢寺などの足利禅刹による洛外の宗教衛星都市「嵯峨嵐山」隆盛の礎となりました。
また嵯峨天皇は「嵯峨」のみならず、「ミヤコ=京都」にとっても大恩人。
平城上皇が旧都平城京への遷都と復位重祚を目論んだ「薬子の変」を鎮圧。
桓武さんが「万代宮」と定めた平安宮を、実質的に「恒久の都」としたのが嵯峨天皇なのです。
若し嵯峨さんが平城さんとの政変に敗れていたなら...。
現在の京都は1200年のミヤコどころか「大津」「飛鳥藤原」「恭仁」「長岡」的な存在。
下手すりゃ今でも「山背」と呼ばれていたかもしれません。
そんな訳で「嵯峨」と「ミヤコ」の大恩人に感佩の念を表し、帰京の折には必ず墓参する私めなのでした。
因みに「嵯峨野」の古来からの定義は、大覚寺/化野を北西端として東は双ヶ岡、南は梅津辺りまでの広大な区域の総称。
これら一帯全てが「野は嵯峨野 さらなり」。
田畑と竹林と原野の広がる鄙風情なのでした。
応時の嵯峨野(つっても60年くらい前までなのですが)を偲ばせる呼称は、近年/現在になっても幾つか残ってます。
常磐(太秦)にある高校が「嵯峨野高校」だったり、帷子ノ辻近くの小学校が「嵯峨野小学校」だったり、嵐電有栖川駅の旧駅名が「嵯峨野」だったりする事からも嘗ての「野」の広さが思い起こせます。
しかしその原風景は宅地造成や都市開発により削り取られ、今となっては風致地区の一帯のみに辛うじてその姿を留めているだけ。
北嵯峨の住宅地も昔は殆ど田畑、此処20年で3~4倍に増えました。
谷崎の言葉を借りるならば嵯峨野は「年々奥に追い詰められて」いるのです。
要約、現在の「嵯峨野」とは、往時の「奥嵯峨」と「北嵯峨の一部」に過ぎないのでした。
天龍寺.車両参道。
帰京最終日(11月21日)はチャリンコ🚴で嵐山方面を椛狩り。
9時頃なら未だ観光混雑の始まる前、それ程人混みもありません。
亀山公園展望台より。
川岸の建物は旧嵐峡館(現星のや)、山腹には大悲閣.観音堂。
最後はココ。
ウチの学区住所は鹿王町、地名元ネタの「鹿王院」です。
因みに住居表示だは「嵯峨北堀町」、若しかすると寺掘の外側だったのかもね。
と、こんな感じのLook back「2024.November」。
メモワール三部作の終で御座いました、とさ。